NHKの夏の特集番組は4大文明であった。
学校の歴史で最初に習うこのありふれたテーマの細部が実に興味深く再構築されていた。
古代の人が高度な文明を持った事、学生時代にはなんの不思議にも思わなかったことなのだが,あらためて新しく神秘的に見えた。
たとえば、始皇帝の兵馬俑ツタンカーメンの黄金のマスク、メソポタミアの神官像。
ことに兵馬俑は、きわめて精度の高い写実主義が存在したことを証明している。

そのことは、古代文明のそこかしこに見られるのである。
写実趣味、あるいは現実主義と言ってもよい。
文明あるいはある社会が繁栄するときにかならず出現するこの素朴な趣向は、理性的な文明というものの基礎的な裏付けなのかもしれない。
インダス文明では、極めて精密な治水・灌漑土木が行われていたことが紹介されていた。
こうした巨大構造物と大規模な土木工事には強い意志の力、原理に基づく計画性などが必要である。
迷信と予言だけで達成できるものではない。
そしてこれらの特質は、現代人でも、なかなか堅持することが難しいことなのである。
こうした大きな歴史の流れを改めて見直すとわれわれの知性とか理性とはなんなのだろうかと改めて疑問に感じてしまう。

以下は空想である。
どのような場所のいつの時代の繁栄の前には、現実主義者たちが現れる。
彼らは、精密な絵と塑像を残し、巨大な建造物を建てる。そして、広大な計画都市を長年にわたって継続する。
そして、その時代が成熟するとやがて、退廃の時代がやってきて、芸術が孤立し象徴主義に走る。
わけのわからないものを作り始めるのである。
建造物は矮小化し、芸術と同様意味のないものになっていく。
都市計画よりも利害が錯綜し、歪んだ都市をつくりあげる。
やがて、環境破壊か自然の摂理が働いて繁栄は、忘れ去られる。
その後には、象徴主義のなれの果ての奇妙な迷信や宗教が残る。
エジプトも中華文明もインダス文明もメソポタミアの文明もそうやって勃興し、やがて文明は忘れ去られ住民だけが残る。
文明の末裔の人々は、栄光ある政治も経済も科学も忘れ、膨大で煩瑣な習慣のなかに埋没する。
これが、おおざっぱ人間の社会の一周期ではないのだろうか。
自分は、抽象芸術というものがどうしても好きになれない。
茶碗や湯のみなどの陶工の抽象芸術ではなく、感情を吐き捨てるような芸術のための芸術が製作する廃棄物のことである。
たしかに、そうした芸術は何かの真実を表現しており、特定の人々には価値あるものに写るのだろう。
しかし自分には文明が落剥していく過程の退廃の象徴と感じられるのである。

かつては、古代文明がなぜ衰亡したのか謎とされていた。
繁栄と衰亡。過去の巨大さとその後末裔たちの社会の矮小さとがどうしても結びつかなかったからである。
マヤ文明など、スペイン人がアメリカにやってくる前に滅びた文明などは、史料の欠如から謎とされていた。
隣国のことで、悪言にならぬよう注意が必要であるが、古代中国世界の輝きと現代の現代の中国の混沌状況には結び付けがたい印象がある。
インダス文明も同様である。
インダス文明を築いたドラビダ人の多くは現在のインドでは進入民族のアーリア人によって最下層のカーストに追いやられ、苦渋に満ちた生活を押し付けられている。
過去に巨大建造物と治水に長けた都市計画を実行した民族の誇りはどこへいってしまったのであろうか。

環境と文明、そして人間の知恵の限界については、ひとつのモデルケースとしてイースター島の歴史がある。
現在のイースター島は人口の点からみても森林の点からみてもあまり豊かな島とはいえない。
そのイースター島でなぜモアイという巨石像がたくさん作られたのか。また、住民にそのような力があったのか、現状を見る限りは謎という他はない。
偉大な建造物と未開と思われるわずかな人々。ここにも、過去の栄光と現状とのギャップがある。

モアイについては、宇宙人説まで飛び出したのだが、真相は大方以下のようなものである。
イースター島はかつては巨木に満ちた豊かな森の島であった。
かつての住民たちはその森林のもとで豊かに暮らした。人口も多かった。
理由はわからないが、豊かな島で繁栄した住民たちはモアイを作り始めた。
巨大建造物をつくりたがるのは、文明化しはじめた社会が最初にすることのようである。
当時は巨木にめぐまれ巨石を運ぶことは、人手さえあれば可能なことであった。
ともかく人々は、木を消費しながら豊かに暮らした。
しかし無限と思われた森林も長い歳月の間に小さく衰えた。
それとともに、森林の恩恵をうけていた人間社会も衰えた。
そしてモアイを作る力も失われた。
あとには、裸の島に巨石像とわずかの人々が残っただけである。
この歴史はわれわれの文明に共通するもっとも根本的な問題を含んでいる。
かつての文明の痕跡はたいていは、荒涼とした大地にある。
エジプトは砂漠の中、インダスも荒地の中、中国はいまなおある程度は豊かさを残してはいるが、2000年前は大森林に覆われていたという豊かさと比較すると荒地でしかない。

われわれの社会は森林によって生み出され、やがてその森林を破壊し尽くすことによって力を失うかのようである。
イギリスの豊かな田園風景は実は破壊の後である。
イギリスはかつて森林に覆われた島であった。
産業革命に至るまでイギリスの森林は破壊し尽くされた。
そして、ようやく石炭・石炭が利用されるようになってようやく、森林は名残をとどめることができたという。
今イギリスの田舎の風景、絵本の世界のようなおだやかな景色はこのようにして作られた風景である。

現代文明の特徴は化石燃料を使うことである。このため、森林の伐採はこれまでの文明よりもはるかにゆっくりとしたものになった。
つまり本質的には長持ちする文明である。(ヨーロッパの現状はこれに相当する)
しかし、それも圧倒的な人口の増加によって結局は森林を地球的規模で消失させることになっている。
過去の経験に学べば、われわれの文明は、常に森林が失われた時に衰退するのである。

我々の知恵は何かを生み出すものではない。
人間の知恵のほとんどは、何かを消費するだけのものである。つまり、膨大な自然の恩恵を享受するだけのものにすぎないのである。
100年もすれば大方の森林は失われ、我々の文明は衰亡せざるをえないのである。