いつの世でも議論の分かれ目となるのは、理想と現実である。現実主義者は常に現実からの緩やかな変化を求め、
理想主義者はかならず現実に対して革新的で抜本的な変化を要求する。
いずれが正しいともいえないし、いずれが効果的かも断定することは難しい。
たとえば、英語教育について考えてみる。
現実の英語教育とは、大学卒で10年もの歳月をかけ、しかも全員が見事単位取得という資格を与えられる反面、その大半が一言半句も生で英語を使えないということである。
しかしながら、受験科目としての英語は確固としており学生の優劣は緻密に採点されている。
この屈折した現状は間違っていて是正されなければいけないとだれしもが考えている。
けれど、改革も修正も一向に進まない。しているかもしれないが効果があったという話は聞かない。
確かに、最近ではアシスタントティーチャー(AT)というシステムが用意され生の英語に触れる機会は学生にとってゼロでは無くなった。
しかし、会話する英語からはとても程遠いのが現状である。
会話する英語が普遍的には重要であるとしても、当面の受験にはあまり関係がないと、先生も父母も生徒もそう考えているからだ。
こうした膠着状態というのは世の中にたくさんある。
理想主義者はこうした事態に次のような施策を考える。
英語は、会話することこそが重要であるので、まず中学で基本会話をみっちりさせる。このためには私塾のように英語は欧米人教師のみの日本語禁止教科とする。
多分のこの方法はかなり大きな成果を収めるだろうし、英語教育全体を大きく修正するだろう。
しかし、これを現実化した場合失業する中学英語教師はどうすればよいのだろうか。
為政者としてはとても選択できないし、親類に英語教師が居たら反対するであろう。
現実主義者はこのとき、その断絶を恐れて、現在のようなAT制度を推奨することになる。
旧来の英語教師の立場を尊重し、しかも悪いところを修正するような調整策を考え出すのである。
こうした現実的方策の多くは、たいていの場合まやかしとなってあまり効果をもたらさない。
実際、ATに実際に携わっている欧人教師の不満を聞くと、日本人英語教師の姿勢に問題があるという。
教師の中には、欧米人教師を単なる発音器としてのみ扱おうというものがいるということである。このために会話を訓練として教えようとするATの意欲を日本人教師が抑止してしまうのである。
もちろん、そうした教師にも正論がある。子供には正しい発音とともに正しい文法を教えるのが英語習得に効果的だと考えているからだ。あるいは、思い込んでいる。
だれもが正義の意見を述べ、正当なことを行っている。
現在のゼネコン問題も同様である。
都市の革新系の人間は簡単に言う。無駄な公共工事をするゼネコンはなくすべきだと。
しかし、現在日本全国平均で20%が公共工事に携わり、票の格差が2.5倍という現実をどのように考えているのだろうか。
地方は税金の消費に依存し、その重みの異なる票の力をもってその維持に奔走しているのである。
この問題はゼネコンをとやかく言っても始まらない。ゼネコン問題は氷山の一角にすぎない。ゼネコンを支えるそうした力のある限り、何も解決はできないのである。
県によっては県総生産の40%を公共事業に依存しているところがある。
また、村落によつてはほぼ100%という地域がある。
彼らにとっては公共事業は必要な事業である。生活に直結するのだから、その道路や建物の必要性よりもその工事予算の方が重要なのである。
もちろん彼らだってそんなことは不健全であることは百も承知している。
しかし、一村・一町の収入を絶ってまでその間違いを正すことはできないのである。自然、そのことを他から指摘糾弾されればいきりたつ。
これは正誤の問題ではなく、生存の問題なのである。
この問題を解決するには、地方の生活をどうするかということなのである。
また、現状で生活基盤をそこにおいている今の世代の人たちが働かなくなるまで解決できない問題でもある。
このような問題を解決するにはどのような施策が必要なのであろうか。
最近、日本における哲学の意味を知りたくて、哲学入門という単行本を手に取った。
その中にこの現実と理想の問題に相似した命題が提示されていた。
哲学は本質を考えるので実社会と遊離していると考えられている。しかし、哲学は本来われわれの存在そのものの意味を考えることなので、本来は身近なものである。
しかし、身近なことを真摯に考えることは、卑近から遊離してしまうのであるというようなことが説明されていた。
その反面、人は現実的になりすぎると人は方向と存在意味を失うことも我々は体験として知っている。
猛烈企業が人を疲弊させやがて、社会悪として葬られる例が時々紙上をにぎわせるが、あまりに刹那的に現実的というものも問題があるということの例である。
現代問題の解決には哲学が必要だという人がいる。
しかし、この言葉は扱いが難しい。
哲学というものは、どのような事を意味するのであろうか。
すべての哲学の源流はソフィストとフィロ・ソフィストとの確執にある。古代のギリシャ哲学における論争あるいは権力闘争であった。
ソフィストとは知識派であり、フィロソフィストとは懐疑派のことである。
ソクラテスは自分は自分が十分に知らないことを知っていると述べた。
知識派は知っていることを自身満々に何事も行う。
言い換えれば、ソフィストとは自らを無限とし、フィロソフィストは自分を有限と考える
20世紀の人間社会はそのソフィストの浅知恵が飛躍的に広がった時代である。
ようやく世紀末になって有限な地球というフィロソフィスト的な見識が多くなってきたところである。
宇宙時代はやってくるし、人類は大航海時代、自動車時代、航空機時代を発展させたように宇宙時代を作り出すという議論がある。
このことを哲学的に考えると否定的である。
なぜなら、人類が行った経済発展はすべて、人と人を、社会と社会をより早く結びつけるためのものであったからだ。
残念ながら現代の人類の知る宇宙には、友人も隣人も敵対する蛮族もいない。
宇宙の距離を結びつける理由がない。なんらかの異星人とのコンタクトがあれば、事態はかわるがそうした確立は宇宙規模ではきわめて小さい。
つまり発展させるべき原動力が無いのである。
哲学とは物事の本質、問題の核心を検討することである。
そのためには懐疑的にならざるを得ない。
無限という話には、いつも眉をひそめることである。
数年前にはアメリカの経済はニューエコノミーという無限発展の段階にはいったと、まことしやかに論評された。
もちろん現実がそれは嘘であると証明した。
さて理想と現実の問題にもどる。
問題の解決は可能であると考えることも大切なことであろう。
しかし、けっして片付かない問題もあり、そのことは人知を超えていると考えてもよい場合がある。
かといって手をこまねいているわけにはいかない。
英語の問題は、多くの人間が、現実は正しくないがその現実を受け入れると自分に有利になると考えることから始まっている。
そのことを変えれば良いのである。
公共事業が地方の産業などというばかげたことが、100年もつづけられるはずがないし、自ら祖先の土地に傷をつけることだと悟ればよいことである。
こうしたものの考え方は知識というものは別である。
子供たちが真摯に自分の存在と大きさについて考えること、また決まっていて保証されたことなど何一つないと知らせればよいだけのことである。
多分、小学校を卒業するまでに簡単な世界の基本構造について原理として教えれば良いだけのことである。
地球の大きさ
木の育つ早さ
滅びた文明
多くの言葉
大きすぎる宇宙について
物物交換とお金の役割
多分昔は多くの昔話や言い伝えがそのことを人々に伝えていたのではないだろうか。
知識が洪水のように溢れる今、そうしたものが必要なのではないだろうか。
本当の問題の解決には