高校生のころに習った漢文は時間も短く、詩賦が多くて、古典に触れるという印象ではなかった。
対して、英語のリーダは英文古典に割く時間が多く、会話もままならぬ実力に不似合いな古典解読をさせられたことになる。
最近、中国古典の詳説した本を読む機会が多いのだが、もし日本人が日本文化教育が必要という国際的に平均的な考え方をするようになれば、
漢文は素読とはいわないまでも、この古典に触れる機会はぜひ多く作るべきだろうと思う。
なぜなら、中国古典はわれわれの社会・性格の基礎を支えるものだからである。
その少ない高校時代の漢文の時間に、禅譲という言葉が印象に残った。
禅譲とは、支配者の交代に際して世襲によらず、能力・徳目による人材抜擢を行うべきだという考え方である。
人間の世界ではすでに紀元前1000年頃にはそういう考え方が本来理想だとされていたことになる。
周の帝尭は、一介の庶民である舜に帝位を譲り、国を治めさせたという伝説がある。
さらに舜も同様に兎に禅譲する。その後は禅譲は行われず、世襲が定着し世が乱れた。
勝海舟のもとを訪れた坂本竜馬に勝はアメリカ大統領の選挙について教えている。
坂本竜馬はその未知の政治システムを尭舜の治世をなぞられたというエピソードがあるが、尭舜の禅譲と、その善政は江戸時代の漢文教育の常識であった。
さてなぜ禅譲が、印象に残ったかというと、その考え方が、あまりに当然のことだったからである。
組織の長は能力のあるものが都度選ばれ、その任にあたるべきだったということは、あまりに当たり前だ。
しかし、自分はその後、社会経験を経るにしたがってその言葉の重みを何度も再確認することになった。
現実の組織では欲得がうずまき、禅譲ということはたいていの場面では行い難いことなのである。
よくある血なまぐさい話に、親族で経営する会社のお家騒動のことがある。
兄弟から親子に代替わりするときには必ず、もめごとがおこる。肉親の欲得の対立は救いがたい悲しさがある。
禅譲などとは程遠い。
人間の組織で世襲が定着しうるのは、天皇家、あるいは徳川家の伝統と同様、”君臨せしも統治せず”という場合である。
そうでなければ、長く続いた大棚の商家のように婿取りによる世襲が正攻法である。
このあり方は、禅譲を実現する方便のようなものである。
いかに、能力を活かすかということと、資産の散逸を減らすかということの生活の知恵といえる。

明治以後の教育や、マルクス経済のプロバガンダにより、著しくイメージをゆがめられた徳川家の実態は、世襲を維持するかわりに、組織的な行政府をおき、政治はどちらかという家格だけ高くて少禄の譜代に任せた共和制のようなものであった。
絶対的な御親政が行われたのはせいぜい家光までの時代で、あとは側用人、老中がよってたかって任にあたった。徳川家の妙は、政治権力と資産を相反する形で分離したことにある。また、反抗的な勢力であった毛利家、島津家をなぜか完全駆逐しなかったという点である。
毛利家の処遇については、関ヶ原戦後処理として領地を1/3までに減らすという荒っぽいものでありながら、根絶しなかった。ここに深い意図があったとすれば、家康は国を大切にした希代の謀略家であったと言える。そのあたり機微は徳川慶喜にもあって不思議な因縁を感じさせる。
江戸の大棚では、養子とりがよく行われたようである。娘にたたき上げの番頭を娶わせる。あるいは、侍の次男坊などを養子とりし、経営はあくまでも番頭でつらぬくというような方法など、いろいろな工夫が感じられる。
要点は、長続きするあるいは、公としての組織というものは、世襲では経営が無理だという単純な経験則を守っているのである。
世襲というものは、宗教的、あるいは精神的な象徴の場合に比較的行われ易く、権力の継承には望ましくないのである。
しかし、戦後、そうした基本理念を忘れた世間では世襲の愚を再び繰り返す。
日本の戦後の創業大企業も、政治家もその子供が跡目をとるということが多い。
兄弟争いから跡目争いまで、小さい会社も大きい会社も同族企業にはかならずと言ってよいほど同じ問題がある。まず、兄弟の問題があり、そして跡目の問題になる。

動物学者の話で、子育てを行う生き物の教育方針は、たいていの場合、一人立ちする知恵を子供に伝えるということにあるという話を聞いたことがある。食料を与えたりや巣を作ってやる親はいない。人間だけが、子供に資産を残そうとする場合が多いという。本来、親から子に伝えるべきものは、そういうものではなく知恵でなければならない。世襲の多くは、院政をひいたりして知恵よりも権力の世襲だけを豪腕で行う場合が多いようだ。創業者の意思がそうでなくとも、親族の意思や思惑がそうした状況にしてしまうこともありがちだ。
人の組織というものは大勢いるというだけですでに公器である。創業者もその公器の上にのっとって仕事を重ねて結果を出す。
世襲という親族争いに巻き込まれた人々こそいいつらの皮である。創業の苦労は楽しいものだが、散逸し滅びていく組織の苦労は哀しいものだ。その努力と時間は暗闇だ。
人々をそのよう暗闇に巻き込むような同族企業をなくすためにも、禅譲という言葉をモラルのひとつにしてもらいたいものだ。